経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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株式会社"銀座スコーレ"
上野テントウシャ

《 わたしという問いからはじめよ 》

わたしという問いからはじめよ

- 銀座スコーレ的「イシューからはじめよ」 -

銀座スコーレ的
「イシューからはじめよ」

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プロローグ:

正しさよりも早さが求められ、答えを持つことが価値とされる時代に、わたしたちは何を起点に選び、決めているのか。

この連載は、ビジネス書の定番『イシューからはじめよ』に触れながらも、成果や効率のためではなく、「わたし」という主語に立ち返るための視座を探ります。

問いとは“持つ”ものではなく、ある日ふと“問われる”ものなのかもしれない――そんな感覚と共に、考察を深めていきます。

Vol.0|成果の出る構造

— 教科書どおりの正しさ -

それでも私たちは、答えを欲しがる

“答えがほしい”。
それは、誰にとっても自然な欲求だ。

不安を消したい。
迷いから抜け出したい。
間違えずに、前に進みたい。

だから私たちは、「それらしく見える答え」を求める。
ただ、その答えは、本当に正しいのだろうか。

その答えは、どこから来たものなのか。

そもそも……
その答えを“正しいもの”として整えたのは、誰だったのか。
どんな背景と、どんな意図があったのか。

そしてその答えは、
本当に「わたし」に応えているものなのか。

整っているからこそ、疑わない

整っている。
論理も通っているし、言葉も洗練されている。
そのため、私たちはその答えに身を預けてしまう。

疑うこともなく、
まるで自分で選びとったかのように。

何の違和感もなく、
何の引っかかりもなく、
その答えを“自分のもの”として語っている自分がいる。

借りものの言葉が、わたしを遠ざける

でも、

問いを飛ばして得た答えは、
どこか借りものの言葉のように響く。

自分の声で語っているつもりでも、
実は誰かの地図の上を歩いているだけかもしれない。

そうした“借りもの”の積み重ねは、
やがて、自分自身との接続を弱めていく。

問いは、あとから浮かび上がることもある

問いは、はじめから明確にあるとは限らない。
むしろ、「どうしてこんなにしっくりこないんだろう」

そんな感覚の中から、あとから静かに浮かび上がってくることの方が多いかもしれない。

だから、“問いから始める”とは、
何か特別なことを考えるというよりも、
“自分を選び直す姿勢”そのものを意味している。

銀座スコーレ的「イシューからはじめよ」

安宅和人さんの『イシューからはじめよ』は、「何を解くべきか」を見極めずに動くことの空虚さを、知的生産という観点から指摘した本だ。
その本質は、わたしたちの「生き方」にも静かに問いを投げかけている。

なぜ、それを解こうとしているのか。
その問いは、本当に自分にとって意味のあるものなのか。

銀座スコーレ的「イシューからはじめよ」は、目の前の課題を“解く”より先に、自分という問いに立ち返るための時間だ。
それは、成果のための手段ではなく、「主語としてのわたし」を取り戻すための試みである。

Vol.1|「イシュー」とは何か

— 問いが成果を決める -

成果が出るかどうかは、何を問うかで決まる

成果は出ている。数字も動いているし、周囲からの評価も得ている。「誰でもできることを、誰よりもたくさんやる」。そんな言葉に、たしかにうなずける自分もいた。

ただ、ふと立ち止まる瞬間がある。この成果は、自分でなければ出せなかったのか。
誰がやっても同じことなら、そこに“わたし”は含まれているのか。

成果が正しいとされる背景には、「経済を回せる人が価値を持つ」という無自覚な前提があるのかもしれない。その前提が答えありきの構造をつくり、その中で、わたしたちはただ“うまくやる”ことを学んでいった。

成果の質は、問いの質に依っている。そう考えると、「どの問いに向き合うか」は、わたしたち自身のあり方を問う行為そのものなのかもしれない。

「イシュー」とは、“本当に向き合うべき問い”のこと

安宅和人さんは『イシューからはじめよ』の中で、イシューをこう定義している。
「本質的で、かつ自分たちが答えを出すべき問題」。
つまり、「答えが出たときに大きな意味がある問い」のこと。

問題はいくらでもあるが、すべてに取り組む必要はない。
限られた時間と資源の中で、自分が解くべき問いを見極めることが、成果の鍵を握っている。

成果を左右するのは、思考の深さではない。
何を問い、どこに焦点を当てるか。その起点の違いが、すべてを分けていく。

選ばなかった問いが、人生をかたちづくることがある

何を問うか。何を問わないか。
それだけで、行動の方向、選択の傾向、関係性の深度は変わってくる。

そして、選ばなかった問いは、「存在しなかったもの」として見過ごされるのではなく、“無自覚な前提”として静かに内側に沈殿していく。

その問いはいつしか、選ばれた問いの背後から行動を支配しはじめる。
本当は問うべきだった問いをすり抜け、“正しさ”に見える成果を積み重ねるほどに、その前提はさらに強固になっていく。

結果が出ているのだから、これでいいのだ。
そう思ったその時から、わたしたちは自分の起点から遠ざかっていく。

銀座スコーレ的“イシュー”の捉え方

ビジネスにおけるイシューは、「戦略的に選び取るべき問い」として扱われることが多い。
だが、銀座スコーレで扱うイシューは、それとは少し異なる。

ここで向き合う問いは、「成果につながるかどうか」ではなく、「わたしがどう在るか」に静かに接続している問いだ。

本当に、そう望んでいたのか。

無意識に避け続けてきたものではないか。

気づかぬうちに、誰かの期待を“自分の答え”として生きていないか。

それらは、はじめから問いのかたちをしていない。
「違和感」「沈黙」「ふとよぎる不一致感」として現れる。

それに触れ続けることができるかどうか。
そこに、“わたし”という問いに立ち返る入口がある。

問いの質が、選択の質を変えていく

問いが変われば、見えるものが変わる。
見えるものが変われば、選択が変わる。
選択が変われば、行動も、関係も、やがて結果も変わっていく。

だからこそ、問いからはじめることには意味がある。
「何をやるか」の前に、「なぜそれをやるのか」。
「何を変えるか」の前に、「何を問うべきか」。

問いは単なる思考のスタート地点ではない。
“わたし”という存在そのものとつながる、もうひとつの起点なのだ。

Vol.2|成果という幻想

— 努力は何をすり減らすか -

成果という言葉の魔法

「頑張れば、報われる」。
「結果を出してこそ、一人前」。
そうした言葉に支えられてきた人は多い。努力は尊いものだと信じ、走り続けてきた。
成果とは正しく頑張った証拠だと信じて疑わなかった。

だからこそ、疑いはじめると戸惑う。
本当に欲しかったのは、この“成果”だったのか。自分の願いとは、こういうことだったのか。

成果という言葉は、あまりにも強力な魔法だ。
与えられた瞬間、自分の内側にあった問いの輪郭が消えてしまう。

成果が目的化するとき、見えなくなるもの

成果は本来、何かの手応えであり、通過点であるはずだった。
ただ、いつの間にか、それ自体がゴールになる。成果を得るために数字を追い、成果が出そうな行動や言葉を優先する。やりたいことよりも、成果になりやすいことを選ぶ。

気づけば、“成果を得られそうな自分”を演じている。
こうして成果は「選択を奪う構造」に変わっていく。
本当に選んでいないのに選んだふりをしている。
演出された決断の裏に、自分の願いは隠れていく。

“決断”は、演出されていないか?

多くの決断は、決断のかたちをしているだけかもしれない。
心の底から選んだように見えても、実際には周囲の期待や安定への欲望に応えただけのものもある。

  • 「成果が出るから」
  • 「このほうが安定だから」
  • 「評価されるから」

そうして選ばれた“正解”には、演出された決断が潜んでいる。
選ぶとは、何かを切り捨てることを引き受けることだ。
他者のまなざしに最適化すれば、そこに揺らぎは生まれない。ただ、その揺らぎこそが、生きた決断の痕跡なのではないか。

幻想にすり減る前に

成果という幻想は、正しいかたちをしている。だからこそ、多くの人が疑わずに追いかける。
ただ、幻想にすり減れば動機はぼやけ、本当に望んでいたものから遠ざかっていく。
成果を疑うことは、成果を否定することではない。むしろ、成果の意味を取り戻すことに近い。
自分の源泉から選ぶことは最短経路ではない。ただ、その選択がもたらすものは、ずっと深く、ずっと遠くまで届く。それこそが“最深経路”なのだと思う。

最深部の問いが、道を変える

問いの深さは、進む速度とは両立しにくい。ただ、自分の源泉に触れながら歩むことは、「なぜ自分はこれを選んだのか」という問いと向き合うことでもある。
答えの出ないまま残り続けるその問いに立ち戻れる限り、人は幻想に呑まれない。

成果の輪郭が崩れるとき、問いが現れる。
今、自分はどんな問いに向き合っているだろうか。
そして、その問いは本当に“生きるに値する問い”なのだろうか。

Vol.3|意思決定に含まれるもの

— 迷いが示す、選び方の輪郭 -

選び方は、決断だけでは測れない

選ぶという行為には、明確な判断や論理だけでは説明できないものがある。
そこには、わたしたちの中に潜んでいる「見えない重み」がある。
どちらが正解か、どちらが得かという比較軸だけでは測れない。

むしろ、何かが引っかかる。決めかねる。それでも選ばなければならない。
この「選び方に含まれる揺らぎ」こそが、その人にとっての意思決定の風景をつくっている。

答えの出る問いと、出ない問い

問いには種類がある。
正解にたどり着ける問いもある。
それは知識の問いであり、論理や構造によって解かれていく。
この問いには、どこかで終わりがある。

一方で、正解のない問いもある。
「何を大切にするのか」「どう生きたいのか」。
こうした問いは、解くものではなく、生きるものだ。
生き方の選択そのものが、問いに対する応答になっていく。

“持ち続けている”ものとしての問い

自分が持っていると思っていた問いが、実は自分の方が持たれていたという感覚に変わることがある。ある問いが、こちらの生き方や態度を静かに問い返してくる。

それは、意識的に立てた問いというより、「どうしてもしつこく残っているもの」に近いかもしれない。そしてこの残り続けるものが、選択の癖や判断の癖をつくっている。

それを自覚できるかどうかで、意思決定のあり方は大きく変わる。

揺らぎを含んだ選択をするということ

揺れたまま決めること。
迷ったまま進むこと。
それは優柔不断ではなく、むしろ誠実さのあらわれだ。

安易に答えに飛びつかず、自分にとって意味のある選択を模索する姿勢。こうした選択には、失敗や後悔も含まれるかもしれない。

ただ、それでも自分の手で選んだと思えるかどうかが、その後の問い続ける力に関わってくる。

選び方の輪郭は、迷いが教えてくれる

迷いは無駄ではない。むしろ、自分の中にまだ言葉になっていない違和感や願いがあることを教えてくれる。

即答ではなく、保留や逡巡(しゅんじゅん)があるときこそ、「本当は何を大切にしたかったのか?」という問いが顔を出す。

その迷いに目を向けたとき、選択の背景にあるものが少しずつ見えてくる。それは行動の理由というより、生き方の癖そのもの。

選び方の輪郭は、答えからではなく、迷いの中にこそ浮かび上がってくる。

Vol.4|正解が問いを殺すとき

— 「問い続ける勇気」が生まれる瞬間 -

正しさの陰にある欲望

「正解はある」。そう思えた方が、ずっと楽だ。何が良いか、何が間違いか。
線が引かれていれば、その中を歩けばいい。

安心を得るために、正しさを求めてしまう。そしてそれが共通言語として受け入れられているほど、わたしたちは「問いの余地」があったことすら忘れてしまう。

正解が支配する空気

誰かが「こうすればいい」と言ったとき、それがやさしい声であっても、問いは静かに消えていく。場が整っているほど、疑問を挟む余地がなくなる。

空気を乱さないことが優先されると、問いは表に出てこなくなる。その場に「異なる仮説」が存在しないわけではない。ただ、それを口にできる雰囲気が失われている。

こうして問いは、腐らないまま、ただ置き去りにされていく。

仮説としての正解、仮説としての自分

「これは正しいのか?」ではなく、「これは今、仮にそう捉えているだけか?」と問い直せるか。仮説という視点には暫定性がある。一時的に寄りかかるが、状況が変われば問い直す余地がある。

この態度は、自分自身にも向けられる。自分の考え方やふるまいすら、「仮説としての自分」として持てるか。
そうすれば、選び直すことができる。問い続けることもできる。

「わからなさ」をそのまま置いておく力

すぐに答えが出ないことは、不安だ。
誰かに置いていかれる気がするし、評価されないかもしれない。

だが、問いはすぐに解決されるべきものではない。
曖昧さの中にとどまれるかどうかが、問いを持ち続ける力につながる。

「わからないものを、わからないまま置いておく」。
これは怠けではなく、誠実さの一つの形だ。

問いを保つための構造

問いを保つには、個人の姿勢だけでなく「場の構造」が必要になる。

すぐに結論を求められない空間。
未整理のまま差し出しても咎められない関係性。
誰かの声が途中で変わっても、それを「ブレ」とみなさず、更新として扱える風土。

こうした構造があるとき、問いは腐らずに置いておける。
そしてその場では、問い続ける勇気も育っていく。

問いの継続は、制度設計で守られる

問いは、個人の知的姿勢ではなく制度の問題でもある。

仮説を正解扱いしない文化。
わからなさを共有する技術。
意見を途中で変えてもいいという設計。
こうした条件がなければ、探求は競争や評価にすり替わっていく。

問いの継続には、“制度的ゆるさ”が欠かせない。
だからこそ、問いは文化でもあり、構造でもある。

次の足場へ

問いは、すぐに答えにならなくてもいい。構造によって保たれた問いは、腐らずに深まっていく。

個人の感受性だけでは届かない場所に向かうために、わたしたちは問いの“制度設計”を持たなければならない。

次の章では、その制度のひとつとして──問いを可視化する「地図」という仮設足場を考えてみたい。

Vol.5|問いの地図を描く

— 揺らぎを可視化する、思考の道具たち -

問いは、常に変化する

問いは固定されない。
今、確かにあったはずの問いが、状況や他者との関係性によって姿を変える。

その流動性は問いの本質でもあり、“つかみにくさ”でもある。

問いの輪郭は流れの中でこそ立ち上がる。「今のわたし」にとって重要な問いは何か。
それを知るには、自分自身の思考や経験の“川の流れ”を一度立ち止まって眺めてみることが必要になる。

仮の“地図”を引くという試み

問いは地図になりにくい。
それでも、完全に流されたままでいると自分の場所がわからなくなる。

そこで必要になるのが、「仮の地図を引く」という営みだ。
今の自分がどんな問いの圏内にいるのか。どの問いには熱があり、どの問いは他者から借りてきたものか。

輪郭が曖昧なままでもよいから、いったん“並べてみる”。
それは問いを定義する作業ではなく、問いの現在地を観測する作業だ。

紙でも、付箋でも、マインドマップでもいい。
「問いの地図を描く」という行為そのものが、思考の道具になる。

問いの重なりを観察する

地図を描くと、意外な発見がある。
一見まったく別に見えた問いが、実は根っこでつながっていたり、自分が繰り返し立てている問いの“形”に共通のパターンが見えてきたりする。

たとえば……
「どこまで自分をさらけ出してよいか?」という問いと、
「相手にどこまで踏み込んでよいか?」という問いは、
向きは違っていても、どちらも“境界”をめぐるテーマかもしれない。

問いの重なりを観察すると、自分の思考回路が浮かび上がってくる。
それは、自分という人間の「問いの風景」を捉え直すことにもつながっていく。

地図は、何度でも描き直せる

問いの地図は、一度描いて終わりではない。むしろ、何度も描き直すことが前提となる。
新しい出会いや失敗、発見、揺らぎ。
それらが重なるたびに、問いの地形も変化していく。

地図は完成された構造ではなく、あくまで仮設的なもの。
「今のわたし」が立っている場所を見渡すための足場のようなものだ。

ジャングルの中に、仮設足場を

Vol.4までで見てきたように、問いのプロセスには不確かさと揺らぎがある。
それはまるで道なきジャングルの中を進むような体験に似ている。
その中に一時的な仮設足場を組んでみる。それが「問いの地図を描く」という行為だ。

ただし足場は、あくまでも一時的なもの。長くとどまれば思考が停滞し、問いは乾いていく。
使い終えたら、ためらわずに壊して、また足元に揺らぎを取り戻す。

“道具”と“地図”の違い

問いを探求するための「道具」と、問いの現在地を見渡すための「地図」は、似て非なるものだ。道具は進むために手に取る。地図は立ち止まって俯瞰するために使う。

この違いを意識することで、問いとともに歩く感覚と、問いを俯瞰する感覚を自由に行き来できるようになる。道具に頼りすぎれば答えに引っ張られてしまう。地図に頼りすぎれば歩みが止まってしまう。

その間を行ったり来たりする。それが、問いを“続ける”ということなのだと思う。

Vol.6|わたしという問いからはじめよ

Vol.6|わたしという問いから
はじめよ

— 銀座スコーレ的「イシューからはじめよ」 -

最後に残るのは、「誰が問うているのか」

ここまでの章では、問いの質、成果との関係、正解への依存、そして思考の構造について見てきた。問いは構造化もできるし、可視化もできる。ただ、最後に残るのは「どの問いが優れているか」ではなく、「誰が、どんな姿勢で、その問いと共に生きているのか」ということだ。

問いの構造や分類は、一定の整理にはなる。たしかに役に立つ場面もある。ただ、問いに生命を与えているのは、主語としての「わたし」である。

主語が現れるということ

問いを扱うとき、私たちはしばしば「何を問うべきか」「どの問いが重要か」と考える。だが、本当に重要なのは、その前に立っている自分自身の姿勢だ。

問いは、誰が投げるかによって意味が変わる。
同じ言葉であっても、その背景にある経験や価値観、関係性によって、問いの方向性はまったく違って見える。

主語のない問いは、他人の期待をなぞる。
主語のある問いは、自分の奥行きと世界をつなげる。
「わたし」が浮かび上がることで、問いは生きはじめる。

問いを“持つ”ことと、“生きる”こと

ここまでの探求を通じて見えてきたのは、問いはツールでも方法でもなく、まして成果のための手段でもないということだ。問いは、“持つ”ものではなく、“生きる”ものだ。
日々の選択や行動のなかに、その人の問いがにじみ出てくる。

そして、問いがその人を問う。
なぜ、それを選んだのか。
なぜ、その言葉を選んだのか。
なぜ、そこで立ち止まったのか。

オーストリアの精神科医・心理学者であり、アウシュビッツを生き延びたヴィクトール・フランクルは、著書『夜と霧』のなかでこう述べている。

「人生の意味を問うのではない。人生のほうが、私たちに問いを発してくるのだ」

私たちは問いを“持つ”のではなく、問いに“問われている”。
問いに向き合うとは、世界からの呼びかけに応答することに近い。

問いは、行動の動機を明らかにするのではなく、動機そのものを生き直すように迫ってくる。

わたしという主語は、揺れている

「わたし」という主語は固定されたものではない。
日々の経験や関係性によって、静かに揺れ続けている。
揺れがあるから、問いもまた揺れ続ける。
かつて強く感じた問いが薄れていくこともあり、長いあいだ眠っていた違和感が、ある日ふと顔を出すこともある。

この変化は、問いの不安定さではなく、「わたしが生きている証拠」と言えるのかもしれない。問いとは、わたしという主語が世界に触れるとき、その輪郭に沿って立ち上がってくるものだ。

はじまりは、「わたし」という起点にある

「成果のために、どの問いを選ぶか」ではなく、
「わたしという主語から、どんな問いが立ち上がるか」に立ち戻る。

銀座スコーレ的「イシューからはじめよ」とは、
思考の効率でもなく、成果の最大化でもない。

それは、「わたしにとって意味を持つ違和感」を見過ごさずに拾い上げる営みであり、
他者の問いに応える前に、まず自分という主語を浮かび上がらせる試みである。

あなたは、どこからはじめますか?

この章が、シリーズの終わりというより、
「わたしからはじめる」ための入口であることを願って。

あなたはいま、どんな違和感に気づいていますか?
それは、誰の声として響いていますか?
その問いは、どこからやってきたものでしょうか?

問いは、もう外にはない。
いつだって、わたしという主語から、はじまっている。

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